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映画『おくりびと』ネタバレ感想|死を描きながら、生を深く感じさせる理由

映画『おくりびと』は、「死」を扱った作品でありながら、不思議なほど「生」を感じさせる映画だ。
日常のなかで私たちは「死」をどこか遠ざけ、タブーとして扱いがちだが、この作品は「生」と「死」が常に隣り合って存在していることを、静かに、しかし確実に突きつけてくる。

本記事では、映画『おくりびと』をネタバレありで振り返りながら、印象に残ったシーンや人物描写、そして「送り出す」という行為が持つ意味について考えてみたい。

目次

『おくりびと』はなぜ「死」を描きながら「生」を感じさせるのか

この映画が特別なのは、「死」を悲惨なもの、避けるべきものとして描かない点にある。
むしろ「死」があるからこそ、「生」が立ち上がってくる。

山﨑努氏がフグの白子を美味しそうに食べるシーンは、その象徴だ。
私たちは生きるために、他の命をいただいている。
「生」は常に「死」の上に成り立っているという、ごく当たり前で、しかし普段は目を逸らしている事実を、この映画はさりげなく提示する。


納棺師という仕事と、所作の美しさ

主人公・小林大悟(本木雅弘)が就く「納棺師」という職業について、映画を観るまで詳しく知っている人は多くないだろう。
私自身も、ほとんど無知だった。

しかし、この映画を通して描かれる納棺師の仕事は、決して特別なものではなく、「人を人として送り出す」ための行為として淡々と描かれる。

特に印象的なのは、その所作の美しさだ。
大悟が故人の身体に触れる動きは、まるで楽器を演奏するかのように滑らかで、無駄がない。
元チェロ奏者という設定も相まって、「旅支度の儀」は音楽の演奏のように感じられる。

エンドロールでもその所作は堪能できるので、ぜひ最後まで観てほしい。


繰り返される演出が、観る人の記憶を呼び起こす

『おくりびと』では、納棺の場面が何度も繰り返し描かれる。
人によって、その意味を強く感じる瞬間は違うだろう。

しかし、回を重ねるごとに、観る側は否応なく「自分の大切な人」を思い出し、その人とどう向き合ってきたのかを考えさせられる。
この反復こそが、この映画の静かな暴力であり、同時に救いでもある。


個人的な記憶と重なった「送り出し」の場面

私自身、末妹を送り出した経験がある。
あまりにも急な出来事で、病院から搬送されて以降の記憶はほとんど残っていない。

ただ、ドライアイスで冷たくなった彼女に死化粧を施し、紅を差した瞬間だけは、その色とともに記憶に残っている。
棺に納めるために、二番目の妹と二人で若草色のスーツを買いに走ったことも忘れられない。

生きているうちにしてあげたかった、後悔から生まれた贈り物。
彼女の最期を彩り、そして燃やすために選んだ一着だった。

『おくりびと』を観ていると、こうした個人的な記憶が、色や所作として自然に呼び起こされる。


夫婦の距離感が示す「寄り添う」ということ

印象に残ったシーンは多いが、特に好きなのは、妻(広末涼子)が一時的に家を出る場面だ。
夫は追いかけもせず、言い訳もせず、ただ仕事に向き合う。

数日後、戻ってきた妻が散らかった部屋を片付けながら言う一言。
「私がいないとダメね。」

この空気感がとてもいい。
力で関係を修復しようとせず、「北風と太陽」で言えば太陽のように、自然に寄り添う姿勢が描かれている。


『おくりびと』が伝える「死」は終わりではないという感覚

映画の終盤に向かうにつれ、はっきりしてくるのは、「死=終わり」ではないという感覚だ。
人は日常を生きながら、いずれ誰もが「門」をくぐっていく。

そのとき、どう送り、どう送られるのか。
『おくりびと』は、その答えを押しつけることなく、静かに観る者に委ねている。


まとめ

『おくりびと』は、「死」を描いた映画でありながら、観終わったあとに残るのは、不思議なほど穏やかな「生」の実感だ。
それは、丁寧な所作と、繰り返される送りの場面が、私たち自身の記憶と重なり合うからなのだろう。

「死」は、決して終わりではない。
そう思わせてくれるこの映画は、人生のどのタイミングで観ても、違う意味を持って立ち上がってくる作品だ。

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