はじめまして。STUDIO KOKORONET(工房 こころね)の店主です。
工房では主にガラスフュージングという技法と、ステンドグラスという技法を使ってガラスの小物を作っています。
まだまだ認知度の少ない工芸であるガラスフュージングのことを発信したいと思い、ブログを立ち上げました。
どうぞよろしくお願いします。
自己紹介(学歴)
誕生~小学校入学まで
8月生まれ。巳年のしし座。
細木和子さんの六星占術でいうと起伏の激しい「天王星人(-)霊合星」。
基本、左利き。ただ、初めて習うときに気をつければ右手も使えるマルチプレイヤー。
リンゴの皮をむくときは右手、きゅうりの千切りは左手。
書道は右手で五段を取得している。
そろばんは、右手でパチパチ玉を弾き、左手で答えを書く。(全珠連で2級)
ガラスを切るときは左手。
自分でもどちらが利き手かわからない。
両えくぼがある。
子供の頃は、いろいろな人に指で触られた、というより押された。
もちろん何も出てこない。
髪は癖毛。
数か月に一度、縮毛矯正パーマをかけている。
小さい頃は、髪の毛はクルクル、目が大きくて、地黒のため、「ちびくろサンボ」と呼ばれることが多かった。
知らない人から「ハロー、ハロー」と声をかけられていたそうである。
エマニエル坊やみたいな感じかな?
下の妹とは6つ歳が離れているので、ひとりっこのように育った。
小学時代(大阪)
小学2年のときに、学校の引っ越しを経験する。
今じゃ考えられないほど子供がたくさんいた時代。
新校舎に生徒全員で歩いて移動(引っ越し)した日のことを覚えている。
小学5年生のときに、初めて先生にたたかれた。
今の世の中は、体罰だと騒ぐけれど、その頃は珍しくない。
しかもこれは、母親が先生に事前に頼んでいたことだ。
「左手を使っていたら叩いてください。」
左利きは悪。
右手で字を書くのは少し難しかった。
でも完全に書けないというわけではなかった。
両手ともそこそこ使えたし、鏡文字が得意だった。
真ん中に鏡を置いたように両手で同時に字を書くという、特技とも言えない珍芸。
その頃から先生が見ている時には右手を使い、見ていないときには左手に持ち替えるようになった。
右手で文字を書くのは左手で書くよりもスピードが遅く、黒板の文字をノートに書き写す前に、消されてしまうからだ。
ちょうどピンクレディが全盛の時期。
「私、ピンクのサウスポー♪」
友達とよく踊った。得意は「UFO」。
ミー役が好きだった。
山口百恵と三浦友和のゴールデンカップル目当てで「あべの橋」にある映画館に通った。
この頃からの映画好き。
中学時代(大阪)
中学校に入って、「生け花部」に入った。
これは花が好きだからではなく、2週間に1回という活動時間の少なさから選んだ。
帰りが遅くなったら危ないという母親の言いつけを守って、「ほぼ帰宅部」を選択したまでのこと。
長女なので、心配されていたんだろう。
学校生活に慣れてくると、用もないのに学校に残って友達と遊びたい。
そこで「美術部」にも入る。
途中からアニメ研究会みたいになって、水彩絵の具で「明日のジョー」を真剣に描いた。
思えばその一枚が自分のなかでは大した作品だった。(模写だけど…)
高校時代(大阪)
部活動
中学時代の反動で、絶対運動部に入りたいと思い「硬式テニス部」に入部。
中学の時に「軟式テニス部」に入っていた経験者が多かったので、常に皆よりも遅れをとっていたがただただ楽しかった。
いつもいつも笑っていた気がする。
部活動以外のことはあまり覚えていないけれど、音楽は「ゆーみん」(松任谷由美)にはまっていた。
学生食堂があり、180円の丼をよく食べていた。これがとても美味しかった。
転校(大阪から栃木へ)
高校2年の時、いきなり父親に、栃木の高校に転校するよう勧められる。
父の提案はいつも唐突だ。
実は高校受験の際にも突然「小山高専(栃木県)」を受けるように提案され、受験したことがある。
栃木県出身の父には、いつか自分の実家周辺で暮らしたいという夢があり、私が「高専」に合格したら引っ越す計画を立てているという。
「高専」は普通の高校入試問題とは全然違う。
大して試験対策もしていなかったので、0点だったんじゃないだろうか?
見たこともない問題、高度な質問の数々にただただ驚きの入学試験だった。
私にはハードルが高すぎた。
今思えば、父は大して努力もしないで、将来のことも考えずに安易に地元の公立高校を選ぶ私に「井の中の蛙大海を知らず」的な危機感を感じていたに違いない。
もちろん「小山高専(栃木県)」は見事「サクラチル」。
私のせいで父親の夢をかなえてあげられなかったという「つかえ」は心のすみに残った。
て、転校?
夏休みの転入試験に向けて、主要3教科のテスト勉強が始まる。
付け焼刃の苦手な数学が、結構ヤマが当たり、転入試験に合格。
高校入試前日はキャンディーズの解散コンサートを見ながら友達と勉強していた私。
転入試験は孤独に戦ったので、達成感が強かった。
そして家族で大阪から栃木に引っ越した。
父が夢をかなえることができて、少しほっとした。
高校時代(栃木)
大阪の高校生が栃木の高校に行くとどうなるのか?
まずはカバン。
大阪ではサーフブランド「ラハイナ」という花クジラの青いデイパックを背負って通っていたので、黒くて重い学生カバンを新規購入。
ピカピカの一年生♪(のちに学生カバンを薄くする方法を教わるが、6歳下の妹にあげたかったのできれいに使った。)
次に制服。
ブレザースタイルで膝上のミニスカートだったので、黒いセーラー服を購入。
もちろん長さもひざ下10㎝。スケバン刑事みたいないでたちに。
それに合わせて初めてリーガルの革靴も買ってもらった。
何しろミッキーマウスの白×赤のスリッポンを愛用していたからね。
何もかもがカルチャーショック。
街並みも、カラフルな世界から灰色の世界になった気がして、すぐに後悔、大阪が恋しい。
父親を恨んだ(笑)
そして入った高校は県内でも5本の指に入る進学校。
驚いたのは教科書の字の大きさが3分の1くらいになったこと。
情報量→情報量。教科書の厚さは同じでも圧倒的に情報量が違う。
場違いなところに来てしまったとすぐにわかる。
それから、世界史は、序章の旧石器時代からナポレオン時代にタイムスリップ。世界史は捨てる。
初めての数学の授業の時に、先生が大きな勘違いをされていることに気づく。
どうやら、転入試験の際の数学の試験がほぼ満点だったらしく、
「大阪から数学のできる賢い女子がやってきた!」
という触れ込みだったらしい。←期待させて申し訳ございません。
ま、最初のテストですぐにそれが大きな大きな勘違いだと、気づかれましたがね。言わずもがな。
普通科が8クラス、家政科2クラスの高校だった。
どうしても目立ってしまい、軽くいじめに遭っていた気がする。
家政科の女子たちの目が怖かった~。
悪いことは忘れる特技あり。←これ大事!
短大時代(千葉)
歯科衛生士の免許も取得できる公立の短大に進学。
月曜日の一限の「解剖学」の先生は厳しいので有名、一度でも遅刻、欠席したら容赦なく落第させるという。
恐怖の月曜日の一限だけは最優先の2年間だった。
あとはサーフィンに明け暮れて、真っ黒に磨きをかける。
地黒でもサーフィンをやっていると言うと、「あ、それで真っ黒なのね。」と、納得してもらえるので便利だった。
サーフィンは難しすぎて楽しかった。数回立てたくらい。
水遊びの域を超えたか微妙なライン。
あと、とにかくバイトに明け暮れた。
- 歯科医院(歯科助手)
- ディズニーランド(フード)
- スナック
- がんばれグリコのキャンペーンレディ
などなど。
学内では派閥になじめず、友達もできなかった。
どちらかというと資格取得だけに専念し、学外での友達と遊んでいた日々。
卒業時、「短期大学卒業」という学歴と、「歯科衛生士」という国家資格を入手した。
自己紹介(職歴)
医療系総合商社(営業)
歯科衛生士の資格を取ったけれども、個人歯科医院で働く気にはなれなかった。
さんざんバイトして、歯科医院がどんなところかわかったし、その頃の歯科衛生士のメイン業務はあくまでも診療補助。
今は、専門職として地位も確立してきて、本来の予防業務などに力を入れている歯科医院も多いので業界は成長したように思う。
実際のところはわからない。
いつしか、福利厚生の整った企業に勤めたいと思うようになり、その視点で会社を選ぶ。
入った会社は規模は大きかったけれど、歯科衛生士として採用された業務は主にプロパー営業。
要は、歯科医院を回っている小売店さんと同行、自社の商品を紹介、販売するというもの。
当時は男性社会だったので若いキャンペーンレディを連れていき、先生の機嫌を良くして何なら買ってもらおう的な扱いに、げんなり。
それでもこれが私の営業人生の始まり。
一年で「寿退社」という名で逃げだす。
生命保険会社(営業)
若い人なら数行で終わる自己紹介も、年をとるとそうはいかない(涙)
自分のことを思い出して書くということをしてこなかったから、何だか楽しくなってきた。
忘れたこともたくさんある。
これからもっと忘れていく前に書いておくのはいいかもしれない。
書いているうちにあぁ、こんなこともあったなぁと思い出してその時の感情が蘇る。
いいことも、もちろん悪いことも。
生命保険会社に入る前にもちょこちょこいろんな仕事をした。
でも自分に一番向いているなと感じたのは生命保険の営業。
1年目はがんばって年間20万円、2年目は150万円、3年目は300万円と財形貯蓄の目標もどんどん上がり、所得が一番多かったよき時代。
収入も多かったけれど支出も多かった。
結局、同じ保険会社に3回入社して3回退職した。
その間に、「ファイナンシャルプランナー(FP)2級」という資格を取得した。
詳しくはこちらに書く予定。
外資系商社(営業)
外資系の商社に入社。
会社からPCとプリンター、営業車、携帯電話等を支給され自宅を起点に直行直帰という形態。
年棒制で、給与は安定した。
月に一回、本社(東京)会議があり、半年に一回、全社会議があった。
月報、日報、交通費請求、報告書等々、すべてPCで処理。
PCスキルはかなり身に付いた。
それまでパソコンを触ったことのない人にPowerPointで資料を作ってもらい、事例発表してもらうなんてこともやっていた。
詳しくはこちらに書く予定。
郵便局(事務)
郵便局の仕事って興味ないですか?
私は昔から興味深々でした。
窓口の仕事しか知らなかったけれど、裏方の事務を4年くらいやりました。
そこで役立ったのはPCスキルでした。
わかる範囲でこちらに綴りたいと思います。題して郵便局のお仕事。
現在
外資系商社に勤めていた時に、心がしんどすぎて、ステンドグラスを習い始めた。
もともと、万華鏡に興味を持っていた。
浦安イクスピアリにあったカレイドスコープ昔館(今は閉店)で、ステンドグラスで作られた素敵な万華鏡を見つけたが、高くて買えなかった。
昭和の私は「買えないものは作ればいい精神」が旺盛なので、自分で作ろうとステンドグラスを習うことを決心する。
もちろん万華鏡も作った。
引っ越しのため、教室をやめることになった。
それからはほそぼそと自宅で小物を作ったりしていた。
あるとき、Instagramで、ステンドグラスではどうしてもできない表現を見て、調べていくうちにそれがガラスフュージングだということがわかった。
そして、そのガラス工芸には「講師免許」が取れるとあったので、挑戦してみることにした。
ステンドグラスには残念ながらそういう体系的な講座もないし、免許みたいなものはない。
経験と実力だけ。
肩書が欲しかった。
「ガラスフュージングインストラクター」免許を取得。
実は一昨年、上級講座受講中に病気になり、入院。
またまた夢半ばで頓挫してしまった。
でもなんとか回復し、今、動き出すことができている。
焦る私に恩師は「ガラスは逃げないよ。」と言ってくれた。
その言葉が嬉しかった。
これからもさまざまなことに挑戦し続けたいと思う。
今はそんなところ。
うまくまとめられないけど、七転八起の人生を結構楽しんでいる。
もしかしてここまで読んでくださった方がいたとしたら、ありがとうございます。